Dr.ヒネラーに復権してもらいたい
仮面ライダーBLACKSUNのビルゲニアはよかった。
何がいいって、昔のスタイルほぼそのままで出ているのが素晴らしい。最近の東映特撮には、悪役の顔を白だの青だの塗ったくり、ごついコスプレをさせて俳優の顔の良さを台無しにしようという気概が無い。ヨドンナがいたじゃないか、と言う人もいるかもしれないが、あれは普通にかわいいから少し違う。そうじゃなくてナイスミドルとかクール系美人とかが、どぎつい化粧をして、髪なんだかヘルメットなんだか分からない被り物をして、動くのに邪魔になる衣装を着て、「愚かな人間どもめー」と叫んでほしい、ルックスの良さを台無しにするのが見たいのだ。
そういう意味で、メガレンジャーのDr.ヒネラーは一番理想に近い。ヒネラーは化粧は濃くないが、それ以外の条件は満たしているし、何より現代日本の人間のセンスであの格好をしているのが素晴らしい。というのも、例えどんな変わった格好をしたキャラクターでも、別世界からやってきたのならその土地では普通のことかもしれない。ただの文化の違いに収まってしまう。しかしヒネラーは、元日本人の鮫島博士が人類に復讐しようとした姿なので、自分の意思であの格好をしていることになる。しかも闇落ちする前は、白衣を着た研究者のおじさんとして登場しているため、そのギャップも痛々しさに拍車をかける。
さらに、ヒネラーになる前の友人として、メガレンジャーの指揮官である久保田博士がいる。この久保田博士は非常に友達思いな人で、ヒネラーが空中に自分をデカデカと投影して、
「私はネジレ次元からやってきたDr.ヒネラーだ。愚かな人間どもめ、滅びよー」
とか言っていると、それに向かって久保田博士が
「おーい鮫島ー、馬鹿な事はやめろー、帰ってこーい、鮫島ー」
とか言ってしまう。
物語終盤になるにつれ、ヒネラーは負けが込んでいき追い詰められていくが、久保田博士のスタンスは最初から最後まで不変であり、それがヒネラーの哀れさを強調する。久保田博士の説得は無視され、反発したヒネラーは悪事を重ねていく。途中で久保田博士の言葉を聞いていれば、命までは落とさなかったかもしれないのに。
コスプレの痛々しさと、転落していく哀れさをうまく合わせれば作劇上の意味も出るし、この方向でヒネラーのような悪役が増えていってくれると嬉しいのだけど、時代的に難しいのかもしれぬ。ドンブラザーズなんか、普通に着るには恥ずかしいような服を着せてるのに、俳優の顔とスタイルで着こなせているものなあ。
尊厳ある死とは
祖母が死ぬ間際のこと、いよいよ容体が危なくなったので、母と弟が病院に向かった。
祖母がいた病室の周りは、先が長くないように思われる寝たきりの老人ばかりで、ごぼごぼという呼吸音、かすかなうめき声、定期的な電子音が響いていたが、その中で一人だけ大声を上げる老人がいた。
「看護婦さーん、ウンコが漏れそうですー」
「いいんですかー、ウンコが出ますよー」
「ああー、もうだめだ、出るー」
そんなことをずっと喋っていたらしい。
弟がいる間は、看護婦は来なかったそうだ。
いや、詳しいことはわからないから言えることはない。
トイレに行っても、用を足せないくらいに衰弱していたかもしれないし、ずっと点滴生活でもう何も出ないのかもしれない。
そもそも、オムツをしていたことも理解してなかったのかもしれない。
田舎の病院に人手が足りてるとも思えない。
しかしだ、この老人は、「ベッドの上でウンコを漏らしたくない」という一点を譲らず、恥を捨てて助けを求めていたのだ。
はっきりしない意識の中、「ウンコを漏らしてはいけない」という人間が最初に覚えるプライドを、最後まで守り続けようとしていた。
これは尊厳ある態度と呼ぶべきものではないだろうか。
その後の老人がどうなったか、それは分からない。
おそらくは、そのままお亡くなりになっただろうが、最期まで尊厳を保つことはできたのだろうか、それだけが気がかりである。
舐達麻に見る、大麻合法化に向けた提案
今もっとも勢いのある日本のヒップホップ・グループ(原文ママ)、である舐達麻のインタビューを読んで驚いた。
舐達麻がブチかますコンプラ無視の“超”大麻論──なぜ「たかだか大麻 ガタガタぬかすな」とラップするのか|日刊サイゾー
以下引用
BADSAIKUSH
日常で何気なく見ているモノや光景を、生まれて初めてそれまでと異なる視点でとらえる経験をしたのが大きかった。
BADSAIKUSH
(前略)
だけど、何年も大麻と真剣に向き合うと、良い意味で自分と身内のことしか考えなくなる。
他人なんてどうでもいいっていうことじゃないんです。
自分と周りを大事にすることが、他人も大事にできることにつながる。
(後略)
DELTA9KID
俺はいわゆる一般家庭とはちょっと違う、変わった愛を受けて育ったんです。
だから、大麻と出会ってから人とのつながりを大事にするとか、ごく普通の愛についてわかってきた気がします。
BADSAIKUSH
俺らの仕事は、大麻と真剣に向き合って自分を磨き、芸術をどんどん良くしていくこと。
(後略)
DELTA9KID
大麻と向き合うことで深く考えることができる。リリックを書くのに集中して、ひとつの事柄からいろんな言葉を生み出せる。
引用ここまで
このインタビューを真に受けるのであれば、舐達麻は大麻が無ければ、
・モノや光景を、それまでと異なる視点でとらえる経験をしていない。
・自分と周りを大事にすることができず、他人も大事にできない。
・人とのつながりを大事にするとか、ごく普通の愛についてわからない。
・自分を磨けず、芸術をどんどん良くしていくことができない。
・深く考えることができない。リリックを書くのに集中できず、ひとつの事柄からいろんな言葉を生み出せない。
ということになってしまう。
これは由々しき事態だ。
特に重要なのが一つ目の項目で、私の知る限り、作家とか画家とか音楽家などの芸術家は、モノや光景を異なる視点で見ることに命を懸ける。
それはそのような視点が創作活動の根源であり、芸術家自身のアイデンティティでもあるからだが、他の芸術家がシラフで行うことを、舐達麻は大麻を使用するというハンデを背負って行わなければならない。
しかも、今もっとも勢いのある日本のヒップホップ・グループである舐達麻が、大麻が無ければ創作できないのなら、他のヒップホップ・グループも大麻無しでは創作できないだろう。
大麻が犯罪とされている現代日本では、ヒップホップ業界は非常に窮屈な立場に置かれていると言える。
ヒップホップ文化の発展が遅れてしまうこともあるだろう。
そこで、ヒップホップ・グループが大手を振って大麻を使用できるよう、以下の提案を行う。
日本の麻文化の保護のために、麻農家が大麻の栽培を規制付きで許されるように、日本のヒップホップ文化の保護のために、ヒップホップ・グループは大麻の使用を規制付きで許されるよう世論に働きかけるのはどうか。
例えば、次のような規制をかけるのはどうだろう。
ヒップホップ・アーティストは月に一回役所に行って、その月に使用できる分の大麻を受け取る。
その大麻を使って創作活動を行い、次の月になったらまた役所に行って、大麻の使用記録と未使用の大麻、さらに成果としての創作物を提出して、問題が無ければ次の大麻を受け取る。
こうすれば、きちんと規制されたうえで大麻を使用できる。
まあこの辺は、実際に使用する人と立法の間で最適な形を模索してもらうのがよいだろう。
世論は規制付きとはいえ、大麻合法化に抵抗があるだろう。
危険薬物は犯罪の温床であるし、健康を大きく損なうというイメージがある。
保守的で潔癖な傾向がある日本人には受け入れがたい。
しかし、ヒップホップはすでに多くの人間の支持を得ているし、市民権もあると言っていい。
大麻が無ければ創作ができないというヒップホップ・グループのハンデと、ヒップホップ文化の保護を中心にアピールすれば、同情の声が高まって法整備できるのではないか。
「水戸黄門のお年寄りの交通安全」が力業すぎる
燦然と輝く「#交通安全時代劇」のタグに驚いて、見てみたのがこの配信。
https://www.youtube.com/watch?v=bS37_QFwuuE
https://www.toeich.jp/program/1TT000002407/202209
交通ルールは現代日本のものなのに、水戸黄門とどうやって結びつけるというのか。
まずはっきりさせておくが、これは
・本来の制作会社である東映が制作し、
・御老公一行は当時の本編に出てくる役者である
という、本格的なつくりである。
本編は普通に始まる。
いつも通り宿場町についた御老公一行は、暴走する大八車に轢かれる老人を助ける。
老人は長屋にいる妻に薬を託して気絶するが、大八車の荷主である悪商人が介抱するといって連れ去ってしまう。
問題はここからで、ここで御老公、助さん、格さんの三人は、撮影の休憩時間に入り撮影所の外に散歩に出かけるが、現代の交通ルールを知らないので道路の真ん中を歩いてしまう。
そこで警察官の恰好をした八兵衛とお銀が交通ルールを教える、という流れ。
これ以降、現代日本で御老公一行が交通ルールを確認するシーンと、江戸時代で悪党の悪事が露見していくシーンが交互に進む。
何が混乱するかって、撮影の休憩時間なら佐野浅夫であるべきところ、なぜか水戸黄門のままだし、八兵衛とお銀はシームレスに現代パートと江戸パートを行き来するしで、まるで意味が分からない。
まあでも、死に装束を着せれらた老人とその妻を観た御老公が、「白い服装は夜道でも目立ってよくわかる」と言ったのは新しい発見だった。
夜に車に轢かれたくない老人は、死に装束を着ればいい。
これ新しい怪談になりませんか?
ところで、気になって調べてみたら、東映チャンネルでは他の交通安全時代劇も放送するらしい。
「かげろうお銀のお年寄りの交通安全」
「大岡越前のお年寄りの交通安全」
「鞍馬天狗のお年寄りの交通安全」
今回の配信により、お銀が交通ルールに詳しいのは明らかになった。
大岡越前は司法の責任者だから、交通ルールを論じてもまあ納得はできる。
しかし鞍馬天狗と交通ルールがどう結びつくのか。
非常に気になるところではあるが、YouTubeで見れるのは大岡越前だけなんだよな。
テレビがないので東映チャンネルに加入できない問題がここで出てくるとは…
とりあえず9月24日から30日まで配信される、「大岡越前のお年寄りの交通安全」だけでもきちんと視聴したい、と思ったところで終わります。
トロッコ問題の役に立たなさ
トロッコ問題が嫌いなんですが、理解してくれる方いますかね?
あの問題卑怯だと思いませんか。
こっちが真面目に考えて答えを出しているというのに、正解を明示しないままどんどん条件を後付けしていくとか、人を不快にしようとしてるだけにしか思えない。
「1人と5人ではどちらを助けますか?」
「多い方がいいので5人です」
「実は5人は窃盗団でした。どうしますか?」
「1人を助けます」
「実は1人は死刑囚でした。どうしますか?」
「5人を助けます」
「実は5人は死刑囚以上の大悪人でした。どうしますか?」
「1人を助けます」
「実は1人は大悪人以上のスーパー大悪人でした。どうしますか?」
「5人を助けます」
「実は5人はスーパー大悪人以上のウルトラ大悪人でした。どうしますか?」
「1人を助けます」
「実は1人はウルトラ大悪人以上のウルトラスーパー大悪人でした。どうしますか?」
・・・
こんな条件を出されている間に、トロッコは通過して誰かが死ぬ。
考える意味ありますか?
そう、思考実験ではしゃいでる連中は、人間の決断には制限時間があるということを理解するべきだ。
トロッコが迫るまであとわずか、考慮できる項目は多くない。
あなたが知らない事実もある。
そんな中であなたは決断する、1人を殺すか5人を殺すか、残りはもう3秒もない。
さあ、どうする。
結局、あなたの決断が正しかったかどうかは、トロッコが通り過ぎた後に思い返してみるしかない。
だってあのときはああするしかなかった、あれが正しいと思ってやったんだから。
でも、それは本当に正しい行為だった?
ウルトラスーパー大悪人1人とアルティメット大悪人5人では、どちらが生きるべきだった?
これは思考実験ではない。
なぜなら実際に起きた事実なのだから。
頭の中でこねくり回した空想ではなく、あなたが起こした事実なのだから。
人生に制限時間がある以上、人は決断をするしかなく、その善悪は後から思い悩むしかない。
トロッコ問題とか考えている暇があったら、今日は人に優しくできたかどうか、考えたほうがマシじゃない?
高遠遙一の勝利条件について考える
金田一少年の事件簿という漫画に、高遠遙一という犯罪者がいる。
犯罪芸術家を自称して、完全犯罪を披露するといっては、名探偵である金田一一(きんだいちはじめ以下はじめ)に挑戦してくる変態なのだが、その勝利条件とはどのようなものか。
高遠が関わるストーリーでよくある流れは、下記のとおりだ。
・高遠が誰かに復讐したい人間を見つける。
・高遠が殺人計画を考案し、復讐者に渡す。
・高遠がはじめを招待して殺人事件を見せる。
・殺人計画のトリックおよび犯人を見抜けるか挑戦する。
もちろん、高遠と犯人に勝ち逃げされては後味が悪いので、はじめは毎回犯人を見抜いているが、では高遠はどうなったらはじめに勝ったことになるのか。
仮に、はじめが誤った推理を披露し、誤った犯人を指名してしまったとする。
そのまま真犯人が逮捕されなければ高遠の勝ち、かというとそうはいかない。
なぜなら、そのまま放っておけば誤った推理が真実として扱われ、はじめの勝利として終わってしまうからだ。
高遠が勝つには、はじめの推理が誤っていることを示して勝利宣言をしなければならない。
つまり、指名された犯人の他に真犯人がいることを説明しなければならないが、
それは殺人トリックの一部をばらすということになる。
それなら、超高難易度のトリックを用意して、はじめが推理を一切披露できなければどうか。
この場合、高遠ははじめの推理を否定する必要がないので、トリックをばらさずに勝利宣言できる。
ただし、これにも制約があって、被害者を事故死や自殺に見せかける方法だとうまくいかない。
というのは、はじめが事故死または自殺と判断して推理を披露した場合、高遠はこれを否定しなければならず、他殺である根拠を示してから勝利宣言しなければならないからだ。
やっぱりトリックをばらしてしまう羽目になる。
整理すると、高遠がはじめに勝つには下記のaまたはbの条件を満たし、かつ他殺であることが明白である必要がある。
a:はじめが殺人トリックを解くことができず、推理を披露できない。
b:はじめが誤った推理を披露し、高遠が不備を指摘して(トリックを一部ばらして)勝利宣言をする。
この条件にははじめに有利な部分があって、
もしトリックを解くことができなくても(条件a)、誤った推理を披露してしまえば、高遠からヒントを引き出すことが可能となる(条件b)。
はじめが僅かなヒントから正解にたどり着く、という描写は作中でいくらでもある。
最終的に真犯人にたどり着く恐れは十分にあるだろう。
はじめが推理を間違えたとしても、結局真犯人が逮捕されるのなら、それで勝ったと言えるのだろうか?
このジレンマを解消するために、はじめに殺人の罪を着せて警察に逮捕させる、という方法がある。
これなら、はじめだけは他に真犯人がいることを知っているが、世論や司法は事件は解決したものとするため、
真犯人は安全だ。
しかも逮捕されれば、はじめは十全に捜査できず、殺人トリックを解きづらくなるというメリットもある。
高遠は裁判後に面会して、気持ちよく勝利宣言をすればいい。
実はシリーズ作品の「金田一少年の決死行」では、高遠がはじめに罪を着せている。
なんだもうやってんじゃん! と思ったが、これが上手くいっても勝てたと言えるかは怪しい。
高遠はこの事件で、催眠術をかけられたはじめが殺人を犯した、と誤認させるトリックを使っている。
そのため、物語中盤のはじめは、覚えはなくても自分が殺人をしたのかもしれないと思ってしまう。
もしここで、罪を受け入れて素直に逮捕、服役してしまったら、高遠はどうするつもりだったのか。
はじめとしては、殺人トリックの知恵比べではなく罠にかけられて負けた、という感想しか出ないのではないか。
高遠はそれで満足できるのか。
面会室で勝利宣言をしたところで、「トリックで勝てないからって罠にかけて満足か?」と言われたら何を思うのか。
高遠が勝つには、厳しい条件をくぐり抜ける必要がある。
それでもシリーズが続くうちは、まだ希望はあるはずだ。
なんせまた連載が再開したのだから。
「金田一少年の事件簿30th」はイブニングで連載中だよ!
動物園ではキリンを見よう
あなたがもし、クリエイティブな人間になりたいのであれば、動物園にいってキリンを見よう。
理由は2つある。
まずはキリンをイメージしてほしい。
大抵の日本人であれば図鑑やテレビでキリンを見たことがあるし、頭の先から蹄までイメージできる人がほとんどだろう。
しかし実物のキリンは、ひたすら縦に長い。
自分の頭とキリンの膝がおおよそ同じ高さに来る。
思いきり上を仰がなければ、キリンの顔を見ることはできない。
イメージでは、簡単に全体像を思い浮かべられるキリンだが、実際には距離をとらないと全体像を見ることはできないのである。
何においても実物とイメージには差がある、百聞は一見に如かずという言葉を体験するために、キリンは有用な教材になるだろう。
二つ目に、キリンとは意思の疎通ができない。
現代社会に生きる人間は、相手に言葉が通じるのは当然のことであり、自分の意思は積極的に伝えるべきであるという風潮の中にある。
しかし、それはあくまでも人間社会の中の話であり、キリンを見ることで、常に言葉が通用するわけではないという考えを持つことができる。
この考えは、発想の幅を広げることになるだろう。
これが他の動物、例えばゾウであれば、なんとなく意志疎通ができそうな気がする。
散歩してたり、鼻で木を掴んで遊んでたり、飼育員に水をかけられて喜んでいるところをみると、言葉が通じないにしろ一生懸命お願いすれば、「うんうん、わかったゾウ」と言ってくれそうな気がする。
あるいは、サイなんかも意思疎通できそうな気がする。
サイは静かだ。
ただじっとそこにいる。
それは、硬く鎧のような皮膚と、鋭い角に自信があるためである。
強いものは、些事に悩まされない。
そういったように、心に余裕がある高貴なサイであれば、言葉が通じないにしろ懇切丁寧にお願いすれば、「よしよし、まかせなサイ」と言ってくれそうではないか。
これがキリンだったら、いくら話したところで声が届いてなさそうだし、何にも聞いてくれなさそうだ。
同じ動物でも意思疎通ができないという実感を得られるだろう。
何? キリンのだじゃれが思いつかなかっただけじゃないかって?
キリンとは話が通じないという話をしているのだから、だじゃれが無いのも当然だ、という結論で終わりにしよう。